最終更新日: 2022年2月1日
1.文化財はかけがえのない貴重なものです。また、信仰の対象になっているものも多く、見学の際に大切に接してください。
2.所有者または管理者の指示等がある場合は、必ずそれを守って見学してください。 公開されている文化財でも写真撮影や拓本の採取等は、必ず所有者または管理者の許可を受けてください。 |
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笠森寺観音堂
丘陵の頂に突き出た岩峰の上に建てられた、四方が舞台造りの「四方懸造り」という日本唯一の構造を持つ建造物です。岩峰の頂上に本尊の十一面観音像が座するように設計された堂は、斜面の形状に合わせて長さが調整された61本の柱によって支えられています。縁起では長元元年(1028)後一条天皇の勅願による建立と伝えられますが、解体修理時に見つかった墨書銘などから、現存の堂は戦国時代の16世紀後半に、何度かの中断期間を挟みながら建てられたこと(再建か)がわかっています。 笠森寺/長南町笠森 →地図 |
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鋳銅唐草文釣燈籠
釣燈籠は総高34.5cmと31.8cmのものが2基あり、東京国立博物館と県立中央博物館それぞれに1基ずつ保管されています。どちらも全体を一つの鋳型で仕上げる「まるぶき」という技法で作られており、笠には唐草文が施されています。製作年代は室町時代と思われます。 県立中央博物館保管(笠森寺所有)/千葉県中央区青葉町 ※展示の有無に関しては県立中央博物館にお問合せください。 |
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木造阿弥陀如来坐像(報恩寺)
表面を漆箔で仕上げたヒノキ材を使った寄木造りの阿弥陀如来坐像です。目には玉眼が入れられています。上品下生印を結び趺座した像は全体に均整が取れており、表情や衣文の鋭い線の表現など運慶の流れを汲む写実的な特徴がよく表れています。台座天板裏に「正応三(1290)年四月卅(30)日」の墨書銘があり、鎌倉時代後期の作と思われます。 報恩寺/長南町報恩寺 →地図 ※通常は非公開。 |
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笠森寺自然林
観音堂を取り囲む約6ヘクタールの広大な自然林です。古代から禁伐林として保護されてきたとの伝承のとおり、、人里近くにありながら、暖地性の植物相をよく遺す貴重な極相林となっています。高木層はスダジイ、ウラジロガシを主体とし、イチイガシ、モミなども見られます。また林床にはイズセンリョウのように、ここが北限とされる種も見ることができます。参道には「子授けの楠」「三本杉」などの名木もあります。 笠森寺/長南町笠森 →地図 |
星野薬局店舗・調剤室・門
江戸中期の創業と伝えられる「いせや」星野薬局はかつて房総中往還の宿場町として栄えた長南宿の中にあります。切妻妻入の土蔵造り2棟からなる現在の店舗・調剤室は文化2(1805)年、門と板塀は慶応2(1866)年に建てられたもので、往時の長南宿の街並みを現代に伝える貴重な建造物です。 長南町長南 →地図 ※店舗内の見学は必ず所有者の許可を受けてください。 |
黒糸肩裾取威胴丸・兜・小具足付(附 指物2硫 鎖帷子1領)
房総屈指の戦国大名・長南武田氏の家臣だった白井家に伝わる甲冑一式です。小札仕立ての胴は黒漆塗で仕上げられ、胸板には五七桐の金蒔絵が描かれています。兜の鉢裏には奈良系の甲冑師と思われる「春田定光作」の銘があります。戦国時代から伝世する貴重な甲冑です。 県立中央博物館大多喜城分館保管(個人所有)/大多喜町大多喜 展示の有無に関しては県立中央博物館大多喜城分館にお問合せください。 |
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称念寺本堂(附 厨子1基 棟札3枚)
称念寺は徳治2(1307)年の開基と伝えられています。現在の本堂は江戸時代中期の享保12(1727)に建立が開始され、3年後の享保15(1730)年に完成したものです。茅葺き屋根の本屋(ほんおく)は桁行五間、梁間五間で、正面中央には三間の向拝が付けられています。また、19世紀に付けられたものですが、内陣と外陣の境の欄間には初代伊八作の「龍三態の図欄間三間一面」があります。 称念寺/長南町千田 →地図 ※本堂内への立入りはできません。 |
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鋳銅鰐口
「上総国刑部郡大悲山笠森寺鰐口也」、「応永三十四(1427)年三月六日谷田大工国安」の銘が刻まれています。谷田は現在の市原市矢田、国安は谷田を拠点としていた鋳物師と思われます。中世上総ではこのような鋳物師が多数活動しており、彼らの活躍を物語る資料です。 県立中央博物館保管(笠森寺所有)/千葉県中央区青葉町 ※展示の有無に関しては県立中央博物館にお問合せください。 |
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鋳銅孔雀文磬
磬とはもともと中国古来の打楽器で、日本では奈良時代以降に仏具として用いられました。文様の間に笠森寺の寺名、室町時代の応永33(1426)年の紀年銘、鰐口と同じ大工国安の銘が刻まれています。在銘の磬としては県内最古のものです。 県立中央博物館保管(笠森寺所有)/千葉市中央区青葉町 ※展示の有無に関しては県立中央博物館にお問合せください。 |
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梵鐘
正応3(1290)年創建と伝えられる報恩寺に伝わる梵鐘です。徳治元(1306)年、願主花園蔵人入道能円、埴生郡雲上山報恩寺金剛院の銘が刻まれていますが、”埴生郡雲上山-”は追刻であり、元は他の場所にあったようです。また、上帯に溶け切れなかった古銭が見えており、当時の梵鐘鋳造に関わる事情が垣間見られる資料となっています。 報恩寺/長南町報恩寺 →地図 |
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木造慈恵大師坐像
慈恵大師とは天台宗中興の祖であり、また、魔を降伏させるとして民間信仰の対象でもあった良源のことです。ヒノキ材の寄木造りで、表面は泥地漆塗りで仕上げられ、袈裟には金箔が残っています。墨書銘から延徳2(1490)年、鎌倉円覚寺大仏所の仏師の作であること、長南次郎平常秀が大檀那として寄進に関わったことなどが分かっています。 長福寿寺/長南町長南 →地図 |
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芝原人形製作用具
芝原人形(→コラム「芝原人形あれこれ」)は江戸浅草の今戸人形の流れをくむ素朴な土人形で、その名のとおり、明治時代初め頃から長南町芝原の田中家で、この地方のひな人形として製作されていました(現在は4代目千葉惣次氏が製作)。振ると人形の中の粘土玉がカラカラと鳴ることから”石ころ雛”の別名があります。製作用具は原型・抜型・彩色用具等で、明治~昭和40年頃まで田中家で使用されていたものです。 長南町郷土資料館保管(個人所有)/長南町長南 →地図 ※長南町郷土資料館で常設展示しています。 |
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油殿古墳群
前方後円墳2基、円墳2基からなる古墳群です。特に墳長93mを測る大型の前方後円墳である1号墳は、4世紀後葉の築造と考えられ、古墳時代前期の房総半島太平洋岸では最大の規模を誇っています。昭和49(1974)年の早稲田大学による発掘調査では、墳頂部に巡らされていたと思われる壷形埴輪が出土したと報告されています。 長南町豊原 →地図 |
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白井鳥酔の墓
元禄14(1701)年、地引村の郷代官を世襲する白井家に生まれた鳥酔は、一旦は継いだ家督を弟に譲った後、俳諧を志して江戸で佐久間長水に師事しました。松尾芭蕉の没後、俳諧は低調卑俗化する傾向にありましたが、鳥酔は芭蕉の正調俳諧を説き続け、天明の俳諧復興に大きな功績を挙げています。 正善寺/長南町地引 →地図 |
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能満寺古墳
芝原にある墳長73.5mの前方後円墳で4世紀の築造と思われます。昭和22(1947)年の明治大学の発掘調査によって舟形木炭槨と呼ばれる埋葬施設と銅鏡、銅鏃、鉄剣、鉄刀、玉類、鉄製道具類などの副葬品が見つかっています。約1.5㎞離れた油殿1号墳とともに一宮川水系を中心に勢力を張った首長墓と考えられ、油殿より先行して築造されたと思われます。 長南町芝原 →地図 |
小生田川絵図
長南町小生田を流れる小生田川にかつてあった長尾堰(洗堰)を描いた絵図で、江戸時代中期の川堰大改修に関係して作成されたものです。絵図の正確な作成年は不明ですが、絵図とともに伝世していた古文書は寛保2(1742)年に作成されたことがわかっています。 長南町小生田 ※非公開のため見学できません。 |
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笠森寺本坊表門
観音堂が建つ山の麓にある笠森寺本坊の門。一間一戸の切妻造り二重すい本瓦葺きの四脚門で、墨書銘から元禄10(1697)建造であることが分かっています。 笠森寺/長南町笠森 →地図 |
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禁制文書(附 制札)
豊臣秀吉の関東攻めが行われた天正18(1690)年、北条方に属していた長南城は陥落し、その支配地は徳川氏の勢力下に入りました。制札・古文書は豊臣方の武将が制圧地域の治安保障のために、総大将の秀吉名で寺社等に配布したもので、自軍の兵が混乱に乗じて乱暴狼藉を行うことを禁止した内容が記されています。 長福寿寺/長南町長南 →地図 ※非公開のため見学できません。 |
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※画像ありません | 軍荼利明王立像
軍荼利明王は五大明王の一つであり宝生如来が変化した姿です。本像は生彩があり肉感的な表現を採りながらも不自然な誇張が見られず、平安時代中期の作と考えられます。 長南町水沼 ※非公開のため見学できません。 |
庚申塔
庚申塔とは道教起源の民間信仰で、江戸時代に流行した庚申信仰の講により建てられた石塔です。塔には寛文7(1667)年の銘があり、”見ざる・言わざる・聞かざる”の三猿が浮き彫りにされています。 長南町長南 *庚申講・・・眠っている間に体内の三尸の虫が天帝に悪事を告げに行くとされる庚申の日、人々が宴をして夜を明かす集まり。 |
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鋳銅鰐口(報恩寺)
刻銘には永徳元(1381)年12月、秀倫が願主となり山辺郡金谷郷(大網白里町金谷)県神社に奉納したものであることが記されています。その後、七渡(茂原市七渡)の龍鑑寺に移り、さらに、同寺が戦国大名酒井氏による七里法華(顕本法華宗への強制改修)の影響を受けた時に、報恩寺にもたらされたと伝えられています。 報恩寺/長南町報恩寺 ※非公開のため見学できません。 |
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鋳銅鰐口(妙覚寺)
応安7(1374)年9月24日に、下総国松沢庄志高村(香取市の旧山田町域)の檀那9人が田部地蔵堂に奉納したことを記した銘が残されています。その後、地蔵堂は数度移転し、鰐口は上総国埴生郡地引の妙覚寺にもたらされました。 妙覚寺/長南町地引 ※非公開のため見学できません。 |
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長南宿絵図
現在の長南市街は江戸時代には矢貫村に属し、江戸と大多喜・勝浦方面を結ぶ房総中往還の宿場町として大いににぎわっていました。この絵図の正確な作成年は不明ですが、江戸時代後期の長南宿の街並みがよく描かれている貴重な歴史資料です。 長南町郷土資料館/長南町長南 →地図 ※長南町郷土資料館で常設展示しています。 |
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道 標
江戸と大多喜・勝浦方面を結ぶ房総中往還は長南宿南の街外れで一宮方面に向かう道と分岐します。道標は安永6(1777)年にこの分岐点に建てられたもので「右 大田喜(大多喜) ばう志う(房州)道」「左 いちのミや(一宮) きよみづ道」と刻まれています。「きよみづ」とは坂東三十三観音の三十二番札所の清水寺(いすみ市岬町鴨根)であり、三十一番札所の笠森観音からの巡礼者が多かったことが分かります。 長南町長南 →地図 |
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根畑遺跡出土子持勾玉
大きな”親勾玉”のまわりに突起状の”子勾玉”が付いているように見えることから、子持勾玉と呼ばれています。材質は滑石で握りこぶしほどの大きさです。古墳時代中期の竪穴住居跡から出土しました。この時期は滑石製品を用いた祭祀が盛んに行われましたが、子持勾玉も祭祀・儀礼のための製品であったと思われます。 長南町郷土資料館/長南町長南 →地図 ※長南町郷土資料館で常設展示しています。 |
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能満寺裏遺跡出土鉄器
能満寺裏遺跡の弥生中期の竪穴住居跡から出土した、斧や鑿など9点の鉄器です。鉄は弥生時代にアジア大陸から日本列島に伝わり、それまでの石器に比べ薄く軽量ながら、充分な強度と切れ味が得られるため、特に工具として多く用いられました。この時期は石器から鉄器への過渡期で両者が併用されていたと思われますが、腐食しやすい性質のためか、遺跡から出土することはほとんどありません。もちろん、一つの遺跡から9点も出土したのは千葉県で初めてのことです。 長南町郷土資料館/長南町長南 →地図 ※長南町郷土資料館で常設展示しています。 |
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八幡神社社殿
八幡神社がある佐坪は、中世には鎌倉の鶴岡八幡宮領であり、神社はその支配拠点であったと思われます。また、領内の農民による抵抗運動があったことでもよく知られています。現在の社殿は天保15(1844)年に建てられたもので(拝殿は明治35年に再建)、江戸時代末期の華麗な様式美を持った建物です。 長南町佐坪 →地図 |
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木造阿弥陀如来坐像(長福寿寺)
長福寿寺は古くから学問所として知られ、江戸時代には房総の末寺308ヶ寺の大本山として知られた名刹です。本尊である本像は同寺の木札から江戸時代に京都から譲り受けたことがわかっていますが、本格的な定朝様式の端正さと優美さを漂わせた優品であり、定朝系の正統な技法を持った中央の仏師による平安時代後期の作と推定されます。 長福寿寺/長南町長南 →地図 |
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木造阿弥陀如来坐像(常福寺)
本像の頭部は平安後期の地方的な作品と思われますが、頭部に対して体部が不自然に小さく、体部の大部分、台座、光背は後世に補修されたものと思われます。もともとは佐坪八幡神社の参道にあった大仏堂に安置されていました。中世の佐坪は鶴岡八幡宮領でしたが、八幡宮の古記録の中に見える「原阿弥陀堂」はこの大仏堂を指していると思われます。 常福寺/長南町佐坪 →地図 ※大仏堂内への立入りはできません。 |
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木造阿弥陀如来立像
慶長7年(1602)開基と伝えられる玉泉寺の本尊です。正確な製作年代は不明ですが、全体的に豊かな質感があり、衣文の古様な表現が印象的であるなど、懐古的な近世の作品と思われます。背面の墨書には、幡随意が江戸に開いた幡随院の寺仏であったこと、元禄時代には幡随院十四世厳誉上人円及ゆかりの仏像であったことなどが記されています。 玉泉寺/長南町市野々 →地図 |
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米満横穴墓群出土遺物
米満横穴墓群は7支群140基を数える県内最大級の横穴墓群です。築造年代は6世紀後半~7世紀と思われ、周辺地域の開発拠点となった集落群に関わる大規模墓域であったと考えられます。平成9年に一部の発掘調査が行われ、トンボ玉・勾玉などの石製・ガラス製装身具、銅製耳環・鉄鏃などの金属製品、土師器、須恵器などが出土しています。 長南町郷土資料館/長南町長南 →地図 ※長南町郷土資料館で常設展示しています。 |
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龍三態の図欄間三間一面
称念寺本堂欄間の荒波を巻き起こす疾風の如き龍三態の彫刻は、「波を彫らせたら日本一。」と謳われた名人・波の伊八こと初代武志伊八郎信由の作で、江戸時代後期の文化・文政年間に製作されました。3体の龍は右が紅、中央が青、左が白で彩色されていますが、彩色は後補の可能性もあります。初代伊八晩年の集大成と言うべき大作です。 称念寺/長南町千田 →地図 ※本堂内への立入りはできません。 |
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笠森寺絵馬
笠森寺観音堂には日蓮上人が三十七日間籠ったという「参籠の間」があり、墨田(現在の茂原市墨田~長南町須田一帯)の住人墨田(高橋)五郎時光が、ここで日蓮の説法に深い感銘を受け信者となったと伝えられています。絵馬はこの伝承を江戸時代初期の絵師、狩野安信が描いたものです。安信の実兄には早熟の天才画家として知られる狩野探幽がいますが、狩野宗家の家督を継いでいたのは安信でした。 笠森寺/長南町笠森 →地図 |
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坂本神社の獅子舞
天保13(1842)年から坂本神社氏子によって伝承されている獅子舞です。昔、上総一帯に疫病が流行して坂本村でも多くの犠牲者を出した時に、悪魔払いの獅子舞を行ったことが始まりと伝えられています。 長南町坂本 ※休止中のため見学できません。
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石造地蔵尊
昔から泥地蔵と呼ばれ、子育て地蔵として近郷の信仰を集めている地蔵尊です。病弱な子を持つ親は子供の無事な成長を祈願して地蔵尊の首から下に泥を貼り付けたと伝えられています。寛文10(1670)年10月24日の刻銘があり、長南の地蔵尊としては古いものです。 長南町水沼 |
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長南袖凧
袖凧は東上総に伝わる特徴的な形の凧です。中でも江戸時代後期に誕生した長南袖凧は「長南とんび」とも呼ばれ、明治後期~大正初期には年産5万枚を数え、長南の特産物の一つでした。この地方では5月の節句に凧を揚げる風習があり、特に男児の初節句を迎える家では、特注の大きな祝い凧を飛ばして、その子の無事な成長を願いました。 長南町郷土資料館/長南町長南 →地図 ※長南町郷土資料館で常設展示しています。 |
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神 輿
徳川家康の関東入りに伴い大多喜城主となった、徳川四天王の一人として知られる本多忠勝ゆかりの神輿と伝えられています。現在の神輿は忠勝寄進のものが老朽化したため、享保5(1720)年に熊野神社氏子によって新たに奉納されたものです。 熊野神社/長南町芝原 ※非公開のため見学できません。 |
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安房上総知県事役所跡
慶応4(1868)年7月、房総の徳川家及び旗本の旧領統治のため、明治新政府から安房上総知県事に任命された柴山文平は当初八幡宿(現・市原市)に進駐していましたが、8月に長南宿の淨徳寺を知県事役所に定めました。その後、同年12月16日(9月に明治に改元)に国替えの井上藩に事務引継ぎをして宮谷(大網白里町宮谷)の本国寺に移るまで、地方行政の中心として機能していました。 浄徳寺/長南町長南 →地図 |
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大森金五郎生誕の地
歴史学者・大森金五郎は慶応3(1867)年、又富に生まれました。明治27(1894)年に東京帝国大学を卒業した後、第一高等学校、学習院、早稲田、明治、国学院、実践女学校で教鞭をとりながら、日本史学研究で大きな実績を挙げ、「大日本史」などの著作を多数残しています。特に源頼朝研究ではその第一人者として知られています。 長南町又富 ※敷地内への立入りはできません。 |
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旧大多喜街道
かつては江戸と大多喜を結ぶ房総中往還の一部で、棒坂と呼ばれる難所の一つでしたが、明治時代の新道開通により旧街道として往時の姿のまま残されました。わずか237mの細道ですが、六面六地蔵や馬頭観音、道祖神などに、街道として旅人が行き交っていた頃を偲ぶことができます。 長南町市野々(市野々バス停脇から上れます) →地図 |
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公家門/井上藩仮本営跡
今関家の門は「公家門」と呼ばれ、一条院宮家から許されて建造したと伝えられています。この地方に多い長屋門と異なり、両側に守衛の詰所を置き、さらに外側に潜戸を取り付けた様式の門です。また、明治2(1869)年、浜松城主であった井上正直が上総国中部に国替えとなった際に、翌年鶴舞に移るまでの間、この今関家に居を構えて仮本営としていました。 長南町長南 ※敷地内への立入りはできません。 |
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私立上埴生学館跡井泉
私立上埴生学館は明治22(1889)年、地元有志の尽力により地方の中等教育機関として今泉に開設されました。明治34(1901)年には私立長生学校と合併して茂原に移転、大正12(1923)年には県に移管されて、現在は県立長生高等学校となっています。 長南町今泉 |
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私立清和女学院跡
明治35(1902)年、当時立ち遅れていた女子教育の必要性を憂慮していた地元出身の白井勇次郎によって設立されました。大正8(1919)年茂原に移転し茂原清和女学校となり、その後県に移管し、現在は県立茂原高等学校となっています。 長南町岩川 |
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長南城跡太鼓森
長南城は戦国時代の房総に君臨した長南武田氏の居城でした。約110haに及ぶ城域は丘陵と谷という地形を巧みに活用して築かれたところを特徴としています。太鼓森は長南の街並みを見下ろす城の最高所にあり、戦時に詰める場所であったと考えられています。また、ここには物見櫓があって、出陣や家臣への合図に太鼓を打ちならしたとの言い伝えがあります。 長南町長南 →地図 |
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長南武田氏の墓
長南武田氏は真里谷城(木更津市)の真里谷武田氏とともに、甲斐武田氏を出自とし、15世紀に古河公方・足利成氏の命で上総入りしたと武田信長の系譜とされています。天正18(1590)年の長南城陥落の時には、1500騎の兵力を保有する房総の一大勢力であったことが記録に残されています。大林寺は長南武田氏の菩提寺として知られており、平成11年に墓所が再建されました。 大林寺/長南町長南 →地図 |
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槇
玉造りの美しい羅漢槇です。羅漢槇は中国原産の常緑樹で、日本では九州から本州中南部に自生しています。九十九里地方の風土にもよくなじみ、さかんに植栽されています。 長南町地引 ※敷地内への立入りはできません。 |
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渡辺辰五郎出生地
弘化元年(1844)年、矢貫村仲宿(現・長南町長南)に生まれた渡邉辰五郎は、15歳のころ江戸日本橋の仕立屋に奉公に入り、辛苦に耐えて腕のいい仕立職人となりました。明治元年に故郷長南で仕立屋を開業しましたが、学制発布後に小学校の裁縫教員に迎えられ、創意工夫で画期的な裁縫学習法を生み出しました。その後、明治14(1881)年には和洋裁縫伝習所(現・東京家政大学)、同19年には共立女子職業学校(現・共立女子大学)を創立するなど、裁縫学習を通した近代女子教育に大きな功績を残しています。 長南町長南 ※敷地内への立入りはできません。 |
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木造金剛力士像(草取仁王) |
木造金剛力士像(草取仁王)
昔、蔵持の村が疫病に襲われたとき、動けない村人に代わって一夜のうちに田畑の草取りをしたという伝説がある仁王像です。修理時に発見された銘によれば、2体とも享保13(1728)年の「再栄」とされており、伝説の元となった仁王像の存在をうかがわせています。 草取仁王堂/長南町蔵持 →地図 |
木造薬師如来坐像
頭部と体幹をカヤの一材から彫り出した一木造りで、目は彫眼、肉髻珠及び白毫は水晶製、表面仕上げは漆箔です。一木造りで、面相等も古風であることから、平安時代中期の作と推定されます。本像は来迎印を結ぶ阿弥陀如来像として伝世されていましたが、修理過程で第一指の形状に改変の痕跡が確認され、東光寺本尊の薬師如来であった可能性が高いと判断され、薬師如来像として復元されました。 東光寺/長南町市野々 →地図 ※通常は非公開。 |
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木像地蔵菩薩立像 天部像二躯(報恩寺)
地蔵像と天部像二躯はともにヒノキ材の寄木造りで、目は玉眼、表面は漆箔で仕上げられています。また、地蔵像の白毫は水晶製で、背面材には三躯を長徳2(996)年に恵心僧都(源信)が彫ったとする朱書がありますが、像容から地蔵像は南北朝~室町、天部像は鎌倉後期と推定されます。 報恩寺/長南町報恩寺 →地図 ※通常は非公開。 |
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木像賓頭盧尊者坐像(宝泉寺)
賓頭盧尊者は釈迦の弟子の1人で、神通力が強かったといわれ、日本では像を撫でると除病の功徳がある「なで仏」として信仰されています。本像は墨書銘により、天正2(1574)年に「妙源禅定尼」が自身の逆修と「善心妙源 道圓妙清」の追善供養のために寄進したことがわかっていますが、銘の中に当時の長南城主・武田豊信と見られる「長南武田兵部大輔」の名があり、その関係性が注目されます。 宝泉寺/長南町坂本 ※非公開のため見学できません。
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大宮神社の大杉
大宮神社の神木で、境内の北斜面際にあります。樹齢は不明ながら、地上高1.3mで幹周8.5mを測る長生地域でも屈指の巨木です。幹は最下部で株分かれしており、主幹はそのまま上方に直立し、支幹は株分かれ部から上方に湾曲してから直立するという、県内のスギの古木の中では特徴的な樹形をしています。 長南町下小野田 →地図 ※「御神木」として信仰の対象であることを承知した上で見学をお願いします。 |